新宿とコピーライター

姉と弟がいます。私は小学校の4年生までは友だちはいなくて、5年生になって、少し友だちができました。もともと友だちはあまり多くなくて、休み時間も、校庭で遊ぶこともせず、ただ教室でじっとしているようなおとなしい子どもでした。

 

3つ上の姉は勉強も体育も絵も得意で、何をやっても敵わなかったので、逆らうなどありえません。その地域のいちばんの進学校に行きました。体も大きかったですし。弟もスポーツが得意でした。3人兄弟のなかで、私は、すべてが中ぐらいでした。ただ電車の絵を書くと母がとてもうれしそうで、それがうれしくて、絵だけは好きでした。

何となく鉄道はいいなあ絵はいいなあという気持ちはありましたが、主体性のない子どもだったので、そんな気持ちをあまり出すことはありませんでした。夢らしい夢がなかったので、「将来の夢」という作文を書かされることも嫌いでした。小学校で将来を語ることがツライ子どももいるのです。日本代表になるような人たちは、小学校のときから具体的な夢を作文に書いたりしていますが、当時は将来の夢がない自分はだめなのかなと思っていました。

将来の夢を持っている友だちがまぶしくて。大きな夢がある友だちがうらやましくて。夢のない自分はよくないという思いはずっとありました。こどもごころに、いつかは決めなくてはいけないけれど、自分に自信がなかったので、わかりませんでした。中学生になっても、それは変わりませんでした。

高校受験の時も、姉はその地域で1番の進学校へ行っていたので、もちろんそこは無理だったので、偏差値を見て、そこの高校なら行けるんじゃないかと言われたからそこに行く、という感じでした。願書を出しに行く日までその高校のこと、場所ぐらいしか知りませんでした。

落ちこぼれるでもなく、問題を起こすでもない。影の薄い子どもだったと思います。親を困らせることはほぼしませんでした。反抗期がなかったんです。

小中と反抗期がない。決定的な反抗期はありませんでした。これはまずいだろうと自分でも感じていました。自分のなかで反抗する理由がないんです。ただ、高校生のときは、同級生とのつきあい上、ちょっと悪いこともしましたが、反抗する気持ちからではありませんでした。でも、反抗期がないままで大人になってしまったら、そのうちとんでもないことになるんじゃないかと、恐かったことは覚えています。

少し変わりだしたのは、高校からでした。私の高校の通学路には、ラブホはあるは、ソープはあるはで、とてもふつうの16才や17才が歩いていい道ではありませんでした。いまその道は髙島屋の前のおしゃれな道となりましたが…

朝、早く学校へ行くときには、通学路でいろんな大人の朝帰りに会いました。ソープのおねえさんが、ちゃんと勉強するんだよ、と2階の窓から笑顔で励ましてくれたりしたこともありました。住宅街の中学から来た私にとっては、日本一ぐちゃぐちゃの街にある高校での体験は、びっくりすることばかりでした。

新宿駅南口を出て学校へ行くのですが、大きな階段を下りたら、学校は右へ、左は紀伊国屋書店への道。よく僕は左へ。僕らは勝手に高校通りと呼んでいたその道は、雀荘、エロ映画館、パチンコ屋、ピンサロ、いかがわしい飲み屋など、かなり刺激的でした。

そのころの新宿駅南口は、いまのような健康的な場所ではなく、東口とか西口とかのようなメジャーでもなく、ただひっそりと裏出口のような存在で、C高校とK高校がガチでタイマンはっていた所でした。夜になるといろんな職種の方々が立っていらっしゃいました。

新宿駅から徒歩3、4分ほどにある学校の場所が場所だけに、ほんとにヤバくて面白かったです。愛すべきダメなおじさんたちから、いろいろ教えてもらいました。勉強はしすぎると、バカになるぞ。そう教えてくれた前歯が全部無いおじさん。酒は生きてくためのツマミだ、とヘロヘロで教えてくれたお兄さん。人間は、バカで、ダメで、でもカワイイいきものなんだと、高校生のときに教えてもらったのでした。少しずつ、何かが解放されていくのがわかりました。

日本一の缶蹴り遊びもしました。高校は、低い塀を隔てて新宿御苑と隣り合わせでした。天皇陛下や首相がお花見などでいらっしゃる由緒正しきところ。江戸時代は信濃高遠藩内藤家の下屋敷。だから住所は内藤町。高校は大正時代に新宿御苑から土地を譲ってもらって開校したという歴史があって、なにかと縁があるわけなのですね。

その御苑は、たしか環境省宮内庁の管轄。だからなのか午後4時半に閉まるのですが、夏だとまだまだ明るい。5時には人がいなくなり、緑だらけの森になります。高校生の僕らにとっては、でっかい遊び場。先輩から続いている名物塀の乗り越え。新宿御苑ぜんぶを使った缶けりの始まりです。見回りのおじさんにみつからないように遊びましたが、たまに見つかり本気の鬼ごっこもやりました。缶蹴りの鬼になったら地獄です。あの広くて木々の深い新宿の森の中に隠れられたら、簡単には見つかりません。鬼を置いて学校にみんなで帰ることも。日本一の缶蹴り遊び、いや世界一の缶蹴り遊び。大人たちには見つかれば叱られたでしょうが、僕らにとっては、バカバカしくて、くだらなくて、めちゃくちゃ楽しかった。

学校のとなりの新宿御苑だけじゃなく、神宮外苑の国立競技場も近くて、意外と緑いっぱいの環境でもあったのですが、あの新宿二丁目もとなりなわけで、緑とピンクが隣り合わせでした。

歌舞伎町やゴールデン街も歩いて3、4分。 土曜日にお世話になっていた場外馬券売場、お昼を買いに行った伊勢丹の地下、授業をサボって映画館、テストの打上げでお世話になった中華の石の屋も、学校からすぐでしたから、なかなかドキドキの高校生活でした。毎日小さいことから大きい出来事まであった3年間。大人にほめられることは、ぜんぜんなかったけど、小中と地味な毎日を過ごしていた人間としては、自分が何が好きで、何が嫌いかということを、わかりだしたのはこのころでした。とはいえ、夢などなかったことは変わりませんでしたが。

まだまだコピーライターという仕事と出会うのは、ずっと先なのですが、この、高校時代が私にとっては、かなり分岐点になっていたのではないかとにらんでいます。その高校は、校則がなく、自分の好きなことをやっても怒られませんでした。たいていの大人は、好きなことをすると、怒る人が多くて、小中のときの先生は、いつも怒っていたような印象が残っています。でも高校では、好きなことをするならしなさい。ただし自分で責任は持ちなさい。こういう方針で、なんだか肌感覚ですが、助かった、と思ったことを思い出します。

変な少年たちが集まってました。たとえば、今、太宰治の研究で教授になったやつがいますが、彼は高校時代から太宰太宰だったみたいです。彼みたいに、テーマがある人でなかったので、自分は何者にもなれないのだと思っていました。鉄道と絵は好きでしたが、すごく熱いものがないので、私みたいな人間は、何者かになってはいけないんだろうな、なれないんだろうなと思っていました。

でも、この頃、人の面白がり方というのは、実はすごくたくさんの種類があって、そのなかに向き不向きがあって、自分はちょっとですが、人を面白がらせたいという気持ちがあるんだというのに気がついて、それが、じんわりとしたりニヤリとしたりという地味な感じのものだったのだとわかったんです。

自分がもともと持っているものはどこの場所にいちばん収まりがいいのか。いちばんハマるのか。自分のことをちょっとでも面白がってくれる人がどこにいるのかを常に考えていました。答えは考えただけでは出ないこと、いろいろ経験したなかで見つけていくことだとわかっていました。

大学はあまりにも大きすぎて、私の居場所はありませんでした。大学には、ほとんど行きませんでした。でも、アルバイトをしたわけでも、デートをしていたわけでも、ありませんでした。鉄道の旅に、たまに行くほかは、ほとんど家にいました。引きこもりほどでもなく、ただ家にいてテレビを見ていました。

好きなものを見つけるというのは、とてもむずかしいものです。生まれてから何でもあって、何でも好きなように選べるなかで、あと何がほしいの?何をやりたいの?と言われてもわかりはしないわけです。でもまわりは、夢がなきゃだめだよ、何か目標を持ちなさい、と言われるわけであって、そのときに、「別にないけど」という子どもに、怒ったりしないでほしいと思うのです。やりたくないのは何?という消去法で、残ったもの、やりたくないことを、育てていくというやり方があっても、いいんじゃないかと思ったりします。もちろん、やりたいことがはっきりわかっている人の話ではありませんが。

高校の3年間、大学の4年間、就職してからの3年間という長い時間をかけて、やりたくないもの、きらいなものを、引き算していきました。時間がかかりました。でも、その時間が、自分の人生を考えるうえで大事だったと思っています。そのときに出会ったのが、新宿でした。コピーライターでした。新宿とコピーライター、僕の大好きな町と仕事です。

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